【悲劇】日本とアメリカのスタディスキルを比較してわかることは

アメリカの大学の講座を受講しようと考えて調べていると科目毎に基本講座のようなものが用意されていることに気づきます。それらの基本講座で提供されているないようは、その科目を学習するために必要な技術を習得するためのノウハウであったりするわけです。ですからある大学である科目を選択した学生たちは、学習するためのノウハウを共通して持っていることになります。

日本の大学を振り返ってみれば、状況がまったく異なっていることに愕然とするのではないでしょうか。大学の授業にも総論と呼ばれる入門講座は用意されています。しかし、その総論の内容はほとんど、科目の全体に渡る議論を紹介しているといったものになっているのが通常ではないかと思うのです。良質だと思える総論でも学会を牽引した学者の功績が紹介されているだけだったりします。

日本では、学習の方法や学習技能は個人的な範疇に入っているようです。どのように学習してもよいというある種の「おおらかさ」があるのでしょうか。ただそのような個人的な学習方法によって一元化された評価を実施して成果が認められればそれで良しとしているように見受けられるのです。このような考え方で本当に大丈夫なのでしょうか。

江戸時代の勉強法、学習法で学生が外国語を学ぶとき、彼らは先生の家にある辞書をひたすら書き写させてもらうという方法を取っていたようです。学習法の善悪がないのであれば、その時代の勉強法は評価されも良いはずです。しかし、苦労と結果とが釣り合わないことは明白です。昔は大変だったねで話が終りません。現代でもそのような苦労と結果が釣り合わない勉強法をしている人は大勢いるのではないでしょうか。

言語での二重文節化という特性を知っていれば、外国語のすべてを学習しなくても外国語は使えるようになるということを知っていることになります。フランス人のようにフランス語を使えなくても、自分がフランス語で何をしたいのかに合わせてフランス語を学べば良いはずです。文献を読めるようになれば良いだけなのに、アクセントで苦労することは意味がありません。

スタディスキル(学習法)はそのような問題を調停する事で、さまざまな学習を効率的に進める事ができるようにと工夫された一連の技術です。何が大切であるか、何が頻出かということを予備校は教えてくれるでしょう。それでできあがるものは記憶しなければならない、学習しなければならない項目のリストになります。ではこれをどのように学習、記憶しますかということを考えるのがスタディスキルだということになります。

根性と気合いで学習するというスタイルを取る友人も多くいました。彼らには時間が無限にあるのでしょうか。また時間をかけて記憶すればできるでしょうか。時間をかければ、忘却もします。覚えてもどんどん忘れていってしまうという人がいます。このような人は覚えることに時間をかけすぎているのです。学習にどのように時間を分配するかも成果に大きく影響するのです。

日本にはスタディスキルを学ぶ場所がありません。一部では家族の中で継承されている学習技術はあります。家によっては未だに幼少期から素読をやっている家庭もあると聞きます。それらは学習法のひとつとして有効であるに違いありません。しかし、社会で標準化された学習法にスポットが当たったということは今まで1度もないのではないでしょうか。

多すぎる学習内容を抱えた受験生たち、高速で変化する社会の中で目まぐるしく変化する事態に対応しなければならない社会人、そしてまだ活躍する事を期待されている高齢者たち。すべての人が学習することを求められているのです。