【希望】一度身に付ければ一生モノのスタディスキルを手に入れる

ガリ勉も学習法の一つです。ただひたすら努力を重ね苦難を乗り越えて初めて修行の結果を勝ち取ることができると考える修行僧による勉強法でしょう。しかし、これは現実的に無理ではないでしょうか。時間は限られているのであり、学習のために使用できる時間はさらに制限的です。時間が少なくてよい、あるいはせめて有効活用できることが必要でしょう。

学習の負担を軽減する事が大切です。学習は苦しむことが目的ではありません。学習によって成果が得られなければ、それは意味がありません。苦しむような学習法、成果を得られない学習法では役に立たないということになります。できれば楽しみを見いだせることと、成果を得られることとが学習法の課題になります。学習法を身に付けるために苦労することも困るのです。

専門的になりすぎてしまうと、学習法を身に付けるために数ヶ月にわたる修行が必要になる可能性もあります。このような学習法は新たな負担を生み出していると言えるでしょう。専門的な能力を必要とする学習法にはこの傾向が強く出てしまいます。例えば、記憶術と呼ばれる分野があります。これを身に付ければ学習が圧倒的に負担は軽くなるでしょうが、記憶術を身に付けるために別の負担を強いられることになってしまうでしょう。

特別な技能を必要としないという要件は、別の要件にも影響を与えます。高齢化することによる問題に対抗できるということになるのです。学習法の訓練を受けずに年齢を重ねてしまった場合、年齢による不利益が学習効率を低くしていることが考えられますから、特別な技能を必要とする学習法を中高年者が身に付けることには負担が大きいのです。

高効率学習法は特別な技能ではありません。人間が本来持っている能力を組み合わせているに過ぎないのです。ですから、特別な技能を要求していませんので、高齢者であっても活用する事ができるようになります。もちろん若い間に習得できれば、その後の学習はさらに楽になり、生涯に渡って活用する事ができる技術だということになります。

学習は記憶のことではありません。記憶して終わりではないのです。記憶する事で考える材料を獲得するのです。考えることで、問題を解決できるということが最も大切な目標なのです。ということは学習する範囲は、記憶から思考、問題解決までを含みます。幅の広い範囲を持った技能だということになります。今日から実践できる高効率学習法の成果を確認することで、すぐに始められるということもメリットの一つでしょう。

高効率学習法を応用する事で、40歳を過ぎてから始めた囲碁でも1年で初段は可能です。フランス語の新聞を読めるようになるまでに初めてから半年というのは如何でしょうか。ドイツ語の単語を1ヶ月で2000語を記憶するというのは難しいでしょうか。太極拳を初めて3年で国際大会の金賞受賞という成果も挙げておきましょう。これらの習得と成果はすべて高効率学習法の応用によるところが多いのです。

中学の時代に学習効率の問題を意識し始めました。当時はそのような問題を考えるだけでナンセンスだと周囲に批判されたものです。しかし、社会人になってからコンピュータの勉強が必要だということになって、学習効率を最大限にする方法を工夫し出したのです。そして高効率学習法は実際の生活の中で力を発揮することを体験し続けているのです。生涯にわたって役に立つ学習法になったと言えないでしょうか。

【悲劇】日本とアメリカのスタディスキルを比較してわかることは

アメリカの大学の講座を受講しようと考えて調べていると科目毎に基本講座のようなものが用意されていることに気づきます。それらの基本講座で提供されているないようは、その科目を学習するために必要な技術を習得するためのノウハウであったりするわけです。ですからある大学である科目を選択した学生たちは、学習するためのノウハウを共通して持っていることになります。

日本の大学を振り返ってみれば、状況がまったく異なっていることに愕然とするのではないでしょうか。大学の授業にも総論と呼ばれる入門講座は用意されています。しかし、その総論の内容はほとんど、科目の全体に渡る議論を紹介しているといったものになっているのが通常ではないかと思うのです。良質だと思える総論でも学会を牽引した学者の功績が紹介されているだけだったりします。

日本では、学習の方法や学習技能は個人的な範疇に入っているようです。どのように学習してもよいというある種の「おおらかさ」があるのでしょうか。ただそのような個人的な学習方法によって一元化された評価を実施して成果が認められればそれで良しとしているように見受けられるのです。このような考え方で本当に大丈夫なのでしょうか。

江戸時代の勉強法、学習法で学生が外国語を学ぶとき、彼らは先生の家にある辞書をひたすら書き写させてもらうという方法を取っていたようです。学習法の善悪がないのであれば、その時代の勉強法は評価されも良いはずです。しかし、苦労と結果とが釣り合わないことは明白です。昔は大変だったねで話が終りません。現代でもそのような苦労と結果が釣り合わない勉強法をしている人は大勢いるのではないでしょうか。

言語での二重文節化という特性を知っていれば、外国語のすべてを学習しなくても外国語は使えるようになるということを知っていることになります。フランス人のようにフランス語を使えなくても、自分がフランス語で何をしたいのかに合わせてフランス語を学べば良いはずです。文献を読めるようになれば良いだけなのに、アクセントで苦労することは意味がありません。

スタディスキル(学習法)はそのような問題を調停する事で、さまざまな学習を効率的に進める事ができるようにと工夫された一連の技術です。何が大切であるか、何が頻出かということを予備校は教えてくれるでしょう。それでできあがるものは記憶しなければならない、学習しなければならない項目のリストになります。ではこれをどのように学習、記憶しますかということを考えるのがスタディスキルだということになります。

根性と気合いで学習するというスタイルを取る友人も多くいました。彼らには時間が無限にあるのでしょうか。また時間をかけて記憶すればできるでしょうか。時間をかければ、忘却もします。覚えてもどんどん忘れていってしまうという人がいます。このような人は覚えることに時間をかけすぎているのです。学習にどのように時間を分配するかも成果に大きく影響するのです。

日本にはスタディスキルを学ぶ場所がありません。一部では家族の中で継承されている学習技術はあります。家によっては未だに幼少期から素読をやっている家庭もあると聞きます。それらは学習法のひとつとして有効であるに違いありません。しかし、社会で標準化された学習法にスポットが当たったということは今まで1度もないのではないでしょうか。

多すぎる学習内容を抱えた受験生たち、高速で変化する社会の中で目まぐるしく変化する事態に対応しなければならない社会人、そしてまだ活躍する事を期待されている高齢者たち。すべての人が学習することを求められているのです。

【疑問】効率的なスタディスキルがなぜ必要なの?楽して勝ちたい

学問に王道なしという言葉はよく知られています。しかし、効率が良いことと王道とは関係ありません。また学習するということと学問とは同じではありません。学習は学問の入口に過ぎず、学習して得られた知識・知見を用いて研究することが学問だからです。病気をしない人はいないということと、健康的な生活をするということとは矛盾しないように学問に王道がないということと効率の良い学習とは矛盾しないのです。

友人たちに高効率学習法を披瀝すると、最初は信じてくれません。「騙されたと思って…」などと調子を合わせてしばらくお付き合いしてもらい、高効率学習法を経験してもらえたなら、必ず彼らは「何故、高効率学習法をもっと早く教えてくれなかったのか」と怒るのです。あるいは「こんなに楽な方法で本当に許されるか」という深い疑念を突きつけてきます。

日本に伝わる昔からの感覚には、楽をしてはいけないという規範が含まれているようです。人並み以上に努力を重ねてこそ、価値があるということなのでしょうか。しかし、学習そのものにあまり価値はないのです。学習によって獲得された知見・知識などを用いて本来の学問などを進めることで、初めて価値が生まれてくるのです。はっきり言えばスタディスキルは学問ではないのです。

スタディスキル(高効率学習法)は楽に学習を進めるために考え出されている一連の技術です。アメリカやイギリスなどでは、スタディスキルという講座が用意されている場合すらあります。標準化された学習技術を基本にして、各学校毎に独自の工夫を加えられた内容になっており、小学校レベルの頃から順番に習得するようになっています。大学レベルともなれば、研究するための技術の基本を既に習得しているのです。

ですから日本人がアメリカの大学などに留学・入学すると、いきなり水を開けられたような状態に陥ってしまうことになりかねません。まわりの学生は先生の簡単な指示だけで、必要な書籍を猛烈な勢いで読んできたりするのですから、ビックリしてしまうのではないでしょうか。彼らの場合はそのような技術を習得しているので、大学を卒業した後も好きな分野を自分で研究することも可能になっているのです。

日本でも十数年前から生涯学習ということが言われるようになってきました。男女の平均寿命が伸びたこと、社会が複雑化したことなどの環境要因から、一度習得した技能が生涯に渡って使用できるとは考えられなくなってきたのです。中高年にさしかかってからでも、全く新しい分野の知識・技能を獲得しなければならないということが要請されているのです。

残念なことには、中高年になってからかつてのコツコツと地道な学習技術はあまり役に立たないということがあげられるでしょう。記憶力も技能ですから、使わなければ劣化していきます。知識は広範になり、理解力も柔軟性をより以上求められるのに、学習を根底で支えるはずの記憶力すら失われつつあるのです。このような現状を見ると、学習技術の習得をできるだけ若い時代に達成しておくことが必要だったと後悔するばかりでしょう。

大学受験、高校受験を間近に控えた受験生たちにとっても学習技術は深刻な問題です。詰め込み教育であれ、ゆとり教育であれ、学習によって獲得された知識が前提です。知識を獲得することが効率的でなければ、どちらの教育方針であっても豊かな成果を期待できるはずがありません。ゆとり教育は知識学習のさらに高みを目指しただけなのですから。

効率が良い学習技術を身に付けると、学習は新しい知識の発見に満ちた冒険になります。勉強が楽しくなるためには、まず簡単に勉強できることが大前提のはずでしょう。

【コツ】方向音痴でも大丈夫。迷子にならないためのゴール設定!

システム開発のリーダをしていた頃、チーム全体で新しいコンピュータ言語をマスターする必要に迫られた事があります。所属会社は全体として品質向上を押し進めていましたので、その関係から部下たちには毎日の達成目標を立てる事を指示してありました。週に1回のチーム会議で彼ら部下たちの目標を確認したときのことです。その一人の目標は、「言語をマスターすること」になっていたのです。

目標(ゴール)を設定していなければ、達成する事はできません。ゴール設定をして達成するという流れは、意思することで自分の行動をコントロールするという意味を形成します。何かを達成しようと決意したなら、その目標を達成するために、何かの行動を起こすことになります。そしてその行動によって得られた成果の集積として目標を達成することになるはずなのです。

目標を設定していなくても、何かを手に入れることができる場合もあります。誰かに与えられたときですね。そのようにして与えられたものは、自分の目標を達成するために役立つかどうかわかりません。さらに目標を立てていなければ、与えられたものからできる行動だけを選択していくことになります。このような行動によって達成される成果は一体何なのでしょうか。事前に予測することはまったくできなくなります。

目標設定と具体的な行動との組み合わせは無秩序ではあり得ないのです。目標を達成することに有益であると考えられる行動を選択しなければならないはずです。しかし、これがなかなか上手にできる人に出会うことは稀なのかも知れません。理由は明らかです。目標設定にあまり価値を見いだせていないからでしょう。しかし、目標設定の能力は、学習でも仕事でも応用可能な汎用性の高いツールとして一生使うことができるのです。

目標設定の失敗には、内容の失敗を挙げる事ができます。目標設定として「…をマスターする」などという宣言をしても、達成することは不可能に近いでしょう。それは目標の内容がある状態を意味しているからです。英語をマスターするということは、何かができることを意味しているのではありません。マスターしている状態を意味しているのです。望む状態は既に報酬であって、具体的な行動に分解する必要があるのです。

行動の目標が必要なのです。最終目標として状態が挙げられたとしても、日々の行動を決定するだけの具体性を持っていないからです。目標設定は最終目標と、ゴールへと向かう日々の目標設定、行動目標が必要だということになります。最終目標を達成するために有益である行動から、現在の自分が実行可能な行動を選ぶことで日々の行動目標を組み立てることができるのです。

目標設定はですから、最終目標、日々必要になる行動目標とからできています。そして毎日達成可能な行動目標を設定することが大切なのです。達成し続けることが目標設定の力なのです。ですから達成不可能な目標を立ててはいけませんね。逆に達成できて当然の目標も目標になることはありません。目標は挑戦的であることが原動力になってくれるからです。

英語の成績を上げる、という最終目標を立てたとします。すると日々の行動目標は「英語の成績を上げる」ことに役立つ、具体的な行動を目標に立てることになるのです。今まで何もできていなかったとすれば、例えば、英単語を3個覚える、程度から始めることが有益です。毎日目標を一つずつ増やして自分の記憶力のギリギリのところを探す事から始めなければ継続が難しいことになります。

(※お金の悩みで迷走中の方はココ→http://mottomobi.com/m35/